蘇我比咩物語
2023.11.01
蘇我比咩物語
この物語は、日本古代史上の伝説的英雄、日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)の東征に端を発します。古記によりますと、第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が東国地方を統一すべく勅命を受け、弟橘姫(オトタチバナヒメ)を始め多数の家来を引きつれ軍船に乗り、千葉沖に差しかかったとき、風雨が強くなり船は進まず沈没の危険に遭遇した。 このとき弟橘姫は「龍神の怒りに触れた」とこれを静め和げんと同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じる。荒ぶる龍神にその命を捧げた姫達。そして日本武尊命は無事航海をつづけることになる。ここまでが古記に記された正史である。
話はここからスピンオフという形で「蘇我」のこの地のルーツに進むことになる。身を投じた五人の姫の中に蘇我大臣の娘たる姫がおり、この方が現在の蘇我エリアの海岸に打ち上げられた。この方が後に信仰を仰ぐことになる、蘇我の姫様である。 里人等の手厚い看護でなんとか蘇生することが出来た蘇我の姫様は、自分がまずどこから来て、どういう身分で、という事から伝えたはずである。なんせ現地の住人からすれば見た事もない綺麗な衣装を着ていたであろう。耳飾りもしていたかも知れないし、とにかく驚いたはずである。そして住人たちに伝えたのはそれだけではなく、生きているのであれば幸い、再び日本武尊命に同道しお仕えしたい。と懇願した。
そして時系列を合わせるならば次のようになる。
日本武尊命一行は東征を無事に済ませ帰路に着くことになり、再び千葉の木更津の辺りから神奈川の湘南あたりを経由して現在の滋賀県のあたりに進む。しかしそこでなんと日本武尊命は病死してしまうことになる。残された一行はその場でご遺体を埋葬し、そのまま大和まで無事に帰り着く。
蘇我の姫様はというと、それを知らずに後を追う形になる。つまり蘇我の姫様は、この千葉の田舎の村にしばらく滞在したことになる。ご一行が木更津を通り過ぎた時にもこの蘇我の地にいたのである。しかし日本武尊命含むご一行は、まさか蘇我の姫様が一命を取り留めたという事実も知らないまま帰路に着くのである。都のご一行が通ればこの田舎村の住人達にも時間を掛けて知れ渡り、蘇我の姫様の耳に入ったのだろう。姫様は慌てて後を追うことを決断する。しかし女性一人の道中−もしかしたら同行した勇気ある住人もいたかも知れないが−である、ご一行に追い付くことは叶わず、しかし無事に姫様も大和の都に着くことになる。そしてそこで日本武尊命が道中で亡くなった事を知るのである。さぞ悲しんだ事だろう。過酷な一人旅を支えていたのは何よりも日本武尊命への忠誠や愛であったはずである。何しろ日本武尊命のために龍神にその命を捧げたのだ。千葉の地元の住人に手厚く受けた看護のおかげで蘇生した命をまた日本武尊命に仕えて捧げる事ができる、そういう想いで一路、都へ脚を進めてきたのだが、ここで願いは叶わなかったのである。
しかし都の人々は大いに沸いた。蘇我大臣の姫が身投げをしたのを聞いていたところに本人が姿を現したのである。しかも辛い長旅を無事に踏破して。疲れ果てた蘇我の姫様はその後、穏やかに大和の地で過ごし、最期まで都を出ることはなかったという。
そしてもちろん一番喜んだのは蘇我の一族である。この千葉の里人等の行為に深く感激した時の天皇、応神天皇は、特別の命により蘇我一族をこの周辺の国造(くにのみやつこ)として派遣し政治をおこなわせる事になるのだ。これが「蘇我」の地名の由来となっている。
ここまでを顧みて、果たしてこの「蘇我の姫様」はどういう人物であったろう。
大事なことを列記してみる。
・海に身を捧げたが素晴らしい力で死なずに済む。
・運よく手厚い看護を受け、蘇生に至る。
・君主への忠誠、愛に厚く過酷な状況でも進み続ける。
・自身の想いが叶わずとも、都人を大いに喜ばせた結果、「蘇我」という地を興し豊かにするに至る。
上記の事から、「蘇我の姫様」には人としての体力、精神力は計り知れず、さらには君主日本武尊命に対する忠誠という愛を貫き通す一途さを感じ取る事ができる。また、その想いは叶わず成就しないが、その想いがあったが故にこの「蘇我」の地が興隆し、ここに「蘇我比咩神社」が鎮座する事になる。これは里人目線で考えれば一目瞭然。あの姫様を助けたお陰でそのご利益を賜ったのだ、と。そして現代の我々蘇我人はこのたった一人の姫様の勇気ある行動、一途な愛の恩恵をいまだに受け続けている事になるのだ。
蘇我比咩大神の御神徳
想うことの肯定 何かを祈ることでその祈りはもう叶っているという事
叶わずとも良い 恋愛成就の神様が多い中、日本で唯一の片思い肯定の神様
想い続けることで人は豊かになれる 多様性のこの時代に必要な自己肯定
ご神前で手を合わせ一途に祈る、それで全てが満たされることになる